美しいと。
きのう、部屋の整理をしていた折りに小学校の卒業アルバムを久しぶりにひらきました。
いつもは同級生の幼い顔を眺めてすぐに閉じてしまうのだけど、きのうは先生たちが卒業生に贈ってくれた言葉をじっくり読んでみました。
今まで一度も読んでいなかったかもしれない。おとなになって読むと、美しい言葉の選び方やこどもたちを想うあたたかい眼差しに感動してしまいました。
なかでも教頭先生の文が印象に残ったので、書き残してみます。
「ある小学校の壁面に次のような言葉が刻まれていました。卒業する君達にその言葉を贈ります。
私たちは 小学校生活から学んだ
本当に美しいものを美しいと
自分の言葉で言えることを
算数で 体育で 音楽で
自分をごまかさないことを 学んできた
私たちは これからも続けてゆきたい
私たち人間が 強く美しくなるために
本当に美しいものは 美しいと
自分の言葉で 言えること
人類が誕生してから、この地球上で紛争や戦争が絶えたときはありません。
世界中の誰もが「本当に美しいものは美しい」と自分の言葉で言えるようになったとき、この地球から「戦争」がなくなるのではと私は考えます。
卒業おめでとう」
おとなになった今こそ、この言葉をおぼえておきたい。
出航前夜
明日、日付では今日、北海道に行ってきます。富良野です。
11月まで馬のお世話をするお仕事をしてきます。
寒くなったら、雪が降ったらこのお仕事は終わりの合図。
そしたら今度は南の暖かいところへ向かう予定です。あくまで予定ですが。
と、いうことを親やバイト先(一昨日退職した)の先輩たちに言うと皆口を揃えて
「へぇー、すごいねぇ。よく一人でそんなところへ行く勇気があるね」と言います。
私は、4人の子供と夜逃げして夫から逃げた母の方が、二十歳で十歳年上の男について嫁ぎまるで「本家の嫁」のような厳格な家庭に飛び込んだ先輩の方が私よりもはるかに勇気がある行動だと思います。
人は「勢い」に身が包まれたとき、マリオでいうスター状態のときに起こした勇気ある決断や行動を自分自身では平然と受け入れているものなのかもしれません。端から見れば「すっげぇー・・・自分には無理だな」というようなことも。
他人にはちょっと理解しがたくても自分自身で妙に納得して「あぁ、こういうことなんだな、私の場合は。」って腑に落ちると、とたんに怖くなくなるのです。
だから、私も今は怖くありません。が、まわりがとても心配そうです。
「大丈夫だよ。ちゃんとやれるよ。」って言うと
「とは言っても、アンタはぽっとしてるところがあるからねぇ。こっちが不安だよ。」なんて言われます。
すこし前、私がまだ迷いの中にあって、おろおろしてるときは
「大丈夫だよ。アンタはなんだかんだいつも一人でやってのけてるから。」なんて言っていたくせに。おかしいな。
最初から「大丈夫だよ、あなたなら。」と言ってくれた人もいます。
ふしぎと、その人たちの言葉は笑顔と共に記憶に残っています。実際そのとき笑顔だったかは定かではないけれど。私がそう望んでいるから、笑顔で言ってくれています。
「大丈夫だよ。」
まじないのように、何度も唱えて。
私はだんだんスター状態になれた気がします。
丈夫に大までついてるんだから、私はきっと大丈夫でしょう。
面皰
調子のわるい日がつづいてる。
まず一つ目にほっぺ、二つ目に鼻の下(右)、三つ目に鼻の下(まんなか)に面皰(にきび)ができた。(にきびってこんな漢字で書くんだね。私は最近、頻繁に辞書をひくようにしてる。)
調子がわるい根源を芥川先生のお言葉を拝借していうと、まさに「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」である。
人が自ら死ぬ理由なんてこのくらいの曖昧さがちょうどいい気がする。適当な気がする。大袈裟に不幸でもなく、多幸でもなく、ぼんやりとした不安。
だれもが一度は抱えるはず。このぼんやりした不安。それでも懸命に生きる人、死ぬ人、ころす人、ころしてから死ぬ人。いろいろ。
世の中、生きているか死んでいるかの人しかいないんだもんなぁ。ふしぎだ。
三つ目の面皰が膨らみかけた日に生理が来た。
調子がわるい理由がまたひとつできた。
ホルモンバランスがぐっちゃぐちゃ。なんて、そんなの自分じゃよくわかんないんだけど。
私の場合、痛くないし、辛くもない、そんなに。ちょっとだるい。それから胸や首やおでこが火照る。心臓が「ドク」て鳴る度に、耳のあたりが「ぼわん」てなる。
あー、もう、やんなっちゃうなー
と、思ってたら、履歴書を出してたところから採用の電話がきた。正直ダメだろうと思ってたから、うれしいというかほっとしてる。
というわけで、来月から北海道の富良野で仕事をすることに。
結構単純で。旅の支度のことを考えただけで、きもちがすこし晴れた。服がいるな、新しい靴も買おう。北海道へ行く路で東北を旅してみようか。東北へは何で行こう。夜行列車なんかどうだろう。高いのかな。なんて。
ぼんやりした不安は消えた訳ではないけど、とりあえず身を潜めてくれてるような気がする。消えたら消えたでちょっとさみしい人生かも。
面皰ははやく消えてくれれば、とおもう。
少女漫画に学ぶ。
どうも最近夜更かしによる寝不足が続き、心の臓が通常よりもどっくどっくと不気味に速く動いている気がする。これはよくない。無駄にポンプを消耗させては寿命がそのぶん減っちゃう。
どうして夜更かししてるかというと、漫画を読んでしまうから。何年かの周期で無性に、強烈にベタな少女漫画が読みたくなるのだ。
何かの欲求を埋めるためだとすると、それはまさしく「ドキドキ」「胸キュン」というやつ。実生活でこの二つ最近どこいったんだろうってくらい、ない。
相手のすべてを受け入れたい、受け入れよう、と思うとやさしくなれるかわりに面白味がないのかもしれない。
「え、なんで?ちがうだろ、そうじゃないだろ」と自分のなかの許容を越えるときの苛立ちや相手のことがわからなくてアタフタする感じが実は「ドキドキ」にちょっと似てるんじゃないか。
思えば、ベタな少女漫画の二人は凸凹コンビが主流。全く正反対なタイプの二人が対立して、まあだいたいは「なによ、変なヤツ!」というスタートから始まるわけだけど、そこから「なんで?」「なんで?」「アイツの気持ちなんかわっかんねーよ!」というようにやきもきし始めるのである。
そうか、私には今、相手に対する「なんで?」が極端に少ないのかもしれない。
「まあ、そんなことも、あるのかな?うん、あるんだろう」とか
「まあ、あなたがそう思うならそうなんじゃないか」とか
ちょっと投げやりな気持ちになってる。
こういう態度は決して「わかりあえてる」とか「認めあえてる」とは言えないんじゃないか。
そんな事を、考えるようになった。
また、ベタな少女漫画のなかでも、《クールで何でも持ってる男の子》と《アホで何にも持ってない、けどがむしゃらな女の子》というコンビが好き。
どこで互いが恋に落ちるかというと、「自分にこんな感情があるなんて、コイツに会うまで気付かなかった。。!」と、自分の新たな一面に出くわしたときに無性に胸がざわついて「あれ、これって恋!?」と意識しはじめる。
相手によって新たな自分を発見するってスゴイことだ!
これは似たような性格の二人じゃなかなか難しい。正反対だからこそ、相手の行動に過敏に反応してしまって《思いがけないこと》として新たな感情が生まれる。
自分を振り返ると、人付き合いの際、なるべく平に砂をならすような感じで整えようとしすぎなんじゃないかと思えてくる。
それが大人になるってことなのかもしれないけど。。
なんか、もうちょっと《誤解》とか《すれ違い》とかバンバンしちゃったほうが人生たのしいのかな〜なんて。
ねじは錆びて。
金土日の大学のスクーリングが終わり、今日は五日振りにお店に立った。
朝七時前に電車に乗って九時から午後六時まで講義を受ける。
年齢も、職業もばらばらだけど「生徒」として一緒に調べものをする。
(「編集研究」の授業なので様々な雑誌をあれこれ調べる。)
はじめて聞く言葉を一つ一つ辞書をひいて、糧となる先生の言葉を一つ一つ書き残す。
放課後は先生が話していた本を探しに大きな書店に寄る。
そんな濃密で、あまりにも短い大学生活。
頭をフル回転、なにもかも吸収しようとする。
今日のわたしは、売り子。
見て触って調べるものも、はじめて聞く言葉も、ない。
蟻の巣みたいな大きなデパートの一角で繰り返す「おそれいります」「さようでございますか」「しつれいいたしました」「おまたせいたしました」「ありがとうございます」
感動の自然科学も社会科学も人文科学も雨粒となって下水にながれてしまったみたいだ。
これじゃあただの「部品」じゃあないか。
「欲」をかんがえはじめる
「実は、食べる時間帯なんてそう気にすることはないんです。ほんとうに食べたいのか、そうでないのかをはっきり意識して食べることが大切。食べたい!食べよう!あぁ美味しい!と心と体が喜べば自然と太ったりしないんです」
と、いうような事を昨夜FMラジオで聞いた。
「食欲がある」と「空腹」がイコールにならないときがちょくちょくある。
意識と身体が合わさっていなくて、どちらに自分を合わせれば正解なんだろうと考えてしまう。
お腹いっぱいなのに何か食べたくて仕方ないとき、お腹ぐーぐーなのに喉に何もとおらないとき、そういう時ってない?と、一緒にラジオを聞いていた彼氏にきくと、ない、と返ってきた。
きっと私だけではないと思うんだけどなあ。
ただ、すっっごく眠くて眠くてでも運転中とか締め切り前とかで寝れない状況の時に睡眠欲を食欲とか他の欲で誤摩化そうと勝手に働く時がある。と、彼は言う。
「欲」の変換??そんなの私はなったことないぞ。
「欲」ってどこかタブーが見え隠れしていて、ほんとうの所在を自分自身であやふやにしてしまっているところがあると思う。ほんとうはあらゆるヘンピな「欲」を潜在的に誰しもが持っているはず。
自分の「欲」と向き合うこと、と、観念だけで生活することを混同しちゃあいけないと思うけど、常日頃の「欲の消化」にもうすこし愛情を注ぐというか花に水をあげるような心持ちを持つことが【日々是好日】にもつながるのかなぁ。
私はなにか強烈な「欲」をもっているのかな。隠しているのかな。
そんなことをぼんやり考えながら、今日は文京や浅草を散策した。
昼食に彼氏と待ち合わせしておいしい天ぷら屋さんに行った。「おいしい天ぷら屋さんの天ぷらはもたれない(だからか、お客は年配のおじさん多し)」「おいしい天ぷら屋さんのカウンターテーブルの木は総じて美しい。」ということが判明した。