権太の生きかた
「ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、
華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。
名答である。
美しさに、内容なんてあってたまるものか。
純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。
きまっている。だから、私は、ロココが好きだ。」
(太宰治『女生徒』より)
「この三つのもの(小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と)が、なぜ、かくも美しいのか。
ここには、美しくするための加工した美しさが、一切ない。
美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。
ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。
そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。
それは、それ自身に似る他には、他の何物にも似ていない形である。
(中略)
見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。
すべては、実質の問題だ。
美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。
要するに、空虚なのだ。
そうして、空虚なものは、その真実の物によって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。
(中略)
必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。
それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。
そこに真実の生活があるからだ。
そうして、真に生活する限り、猿真似を恥じることはないのである。
それが真実の生活である限り、猿真似にも、独走と同一の優越が有るのである。」
(坂口安吾『美について』より)
「あれは確か、高等一年の時だった。
権太は母親が病気で、よく学校に遅れた。宿題もしていけなかった。
母親に代わって、飯の仕度から、赤ん坊のおしめの仕度までしたのだ。
そんな権太を、益垣先生は、理由も聞かずに叱りつけた。
しかも、宿題をして来なかった罰として、権太一人に掃除当番をさせたことがあった。
耕作はその権太の当番を手伝った。
級長の若浜が、受持の益垣先生に言いつけると言った。
「叱られてもいい」
耕作はそのとき、若浜にそう言ったが、当番を手伝ったあと、益垣先生に見つかるのがいやで、校庭を逃げるように走った、と、権太が聞いた。
「耕ちゃん、なんで走る」
「先生に見つかって、叱られるのがいやだからだ」
その時、確か権太はこう言った。
「耕ちゃん、そんなに叱られるのがいやなのか」
耕作はいやだと答えた。耕作はいつも人にほめられることに馴れていた。
だから人に叱責されることは、ひどく恥ずかしいことに思っていた。
だがその時権太は言った。
「耕ちゃん。うちの父ちゃんがなぁ、叱られても叱られなくても、やらなきゃならんことはやるもんだって、いつも言ってるよ」
あの言葉を、高等一年の耕作は、頭を殴られる思いで聞いたものだ。
権太は、たとい先生に叱られても、母の手伝いをおろそかにしてまで、学校に行くことはしないと言った。
権太は、産後の肥立ちの悪い母親に手伝うほうが、より大事だと心得ていたのだ」
(三浦綾子『続 泥流地帯』より)
「美しさ」とはなんぞや。
それが私の十代後半から抱き続けていたテーマの一つであります。
美人、美少女、美少年、そして美術。
そんな言葉から醸し出される甘美な印象に心吸い寄せられた私はその実質を注視することもおろそかにして、ただぼんやりと愛していました。
一番始めに載せた太宰治の『女生徒』はある女生徒の日常を一人称で描いた短編小説です。一年半くらい前に読んで、「まさに私の気持ちを代弁しているわ!」と感激した記憶が有ります。
そして一年半が経ち、今この文を読むと、共感度数がかなり下がっていてむしろ反対な気持ちが芽吹いていることに気付きます。タイトル通りまさに労苦を知らない女生徒・少女らしい感覚な気がしてきます。
そして、こういった空虚な美的感覚を持った人が少女のみならず立派そうに見える大人にも「流行」という言葉とペアになって広がっているような気がします。
「ロココがわるい。流行がわるい。」という考えではないです。
どこか、実質の詰まっていない空虚な、体系だけの美に人は飛びつき翻弄されてない?という実感が私にはあるのです。私のなかにもあるのです。
「純粋な美しさはほんとうに無意味で、無道徳だろうか」
二番目に載せた坂口安吾の『美について』は、彼の実体験に基づく美の探求から辿り着いた坂口安吾流美の定義です。
私はこの文を読んだ時に、恋人と行った表参道ヒルズでのウィンドウショッピングを思い出しました。
その日、一通り表参道ヒルズを見て回って恋人が一番美しいと思ったのは「鉄ばさみ」だと言いました。何の装飾も施されていない鉄のはさみです。
「ねえ、そう思わない?」と聞かれ、その時の私は完璧に理解できないままあやふやに「え(なんでハサミ??)・・・うん」と頼りなく返事をしました。
そして、坂口安吾の『美について』を読んで、やっと彼の言わんとしていることが判った気がしました。彼はものを創るのが仕事です。だから日々道具と二人三脚でいるわけです。そうなると、「どこからどう眺めても無駄が無く必要な部分」で造られた鉄ばさみが「美しい!」と想うのも納得であります。
たしかに、この坂口安吾流美の定義は説得力があります。乙な感じもあります。しかし、ちょっと男性的すぎる感もあります。
私のなかの「女生徒的美意識」が未だに根強く残っているからそう思うのかもしれません。
三番目に載せた三浦綾子の『泥流地帯』は、大正時代の北海道で災害と差別と労苦に石に齧りついてでも立ち向かう兄弟を描いた感動巨編です。私はこの小説から大事なことの多くを学びました。
抜粋したのは貧しい農民の子ども二人のシーンです。
権太は遅刻もするし、宿題もやってこない、身なりも祖末です。
一見すると「美しさ」からかけ離れた存在に映るかもしれません。もしクラスに権太のような子が居たら幼心に「きたない奴だ。できない奴だ。」と思うかもしれません。先生がそう思っているくらいですから。
しかし、権太の行動には迷いがありません。やらなければならないと思ったことを、必要だと思ったことを恐れずやっています。
権太の行動こそに真実の生活があるように私は思いました。けがれない道徳心が詰まっているような気がします。
私は権太の生き方に純粋な美しさを見出しました。耕作同様、頭を殴られるような思いでした。
「一生を終えてのちに残るのは 我々が集めたものではなくて 我々が与えたものである」というジェラール・シャンドリさんの言葉が有ります。
私は最近、この言葉を座右の銘としています。権太はきっと与えた側の人間だなあと思います。
「美しさ」とはなんぞや。
それは、権太の生き方だ。と、いまのところ結論がでたところです。
「美しさ」はきっとひとつではないので、これからも別の「美しさ」が私のなかであらわれると思います。私の実体験からもあらわれるでしょう、が、根底に有るのはきっと真実の生活なんだろうなと思います。
あなたにとっての「美しさ」とはなんぞや?と聞いてまわりたい。
http://www.youtube.com/watch?v=efYOuzy5uH
↑私が思う、音楽作品の「美しさ」No.1
グレン・グールドによるベートーベンピアノソナタ32番2楽章。
余談ですが、私を葬るときはこれと、小沢健二の『天使たちのシーン』、オスカーピーターソンの『Hymn To Freedom』を流してほしい。