【金沢旅帖8】純喫茶ローレンス その二
「純喫茶ローレンス」で女主人と二人きりになってしまった私は、この先店を出るタイミングを完全に見失う!という恐怖感から、先に出た大学生二人組に続けと財布を持って席を立った。
キッチンの前の、雑誌やらテレビやらが住居のように乱雑に置かれた女主人のスペースまで歩み寄ると、テレビを見ていた女主人に話しかけられた。
「かなしい事件や事故が絶えないわね」
祇園の癲癇事故を検証したテレビ番組の音声が聞こえた。
「あぁ。。ほんとですね」
「ごめんなさいね、テレビなんかつけちゃって。毎日ここに閉じこもってるでしょう、ニュースだけは知っておきたいのよ」
女主人の声はやさしい。
そのとき初めてしっかりと女主人の顔を見ると、つややかな素肌におどろいた。
「観光は結構まわられたの?」
「はい、今日このあと帰ります。実はここは昨日そこのギャラリーの方に教わって来たんです」
「まぁ、そうなの、ありがとう。ここはふしぎでしょう。すぐそこの通りは人通りが多いんだけど、この小径に入ったとたん人海が変わるの。どこかさみしくてね。だからみんなここを“ローレンス島”とか“ローレンス塔”って呼んでるの」
人海。戦争とかで使われる人海戦術の人海とはまた違った意味だと思った。
人の流れが変わるということを仰っていたんだと思う、けど、ここには人の海という言葉が合っている。街の中の海と塔。
「ここはオープンして何年になるんですか?」
「今年で45年です。年中無休でやっております。ここは観光地でしょう、毎日旅行でいらっしゃる人がいるの、だから一日も休めないの。そのかわり時間も短いし、メニューは半分しか出さないし、食事もなくしました。ある程度手を抜いて「好い加減」でやらせて頂いております」
「好い加減」
思わず小さく笑ってしまった。
「そう、好い加減。この店は父が開いたの。家族で続けてきたの。だからなんとかあと5年、50周年は迎えたいから、好い加減で毎日続けてるの」
私からさっきまでの恐怖心は抜けて、もっとこの人の話を聞きたいと思った。
「この黒電話、まだ使えるって凄いですね」
「そう、ちゃんと鳴るのよ。案外物って使えなくなる程壊れたりなんてしないのよ。なんだって直そうと思えば直せるものも多いのに、みんなすぐ取り替えちゃうんだから。あのね、ひとついい案を教えてあげます」
「はい」
「あなたが今使ってる素敵だと思う物はとっておいて。押し入れの中にしまうんじゃなくて、出して使ってあげて。いつかそれがこの黒電話みたいになるの。懐かしいとか素敵だなって思う人は意外と沢山いるの。それで、どうしても疲れて、ストレスが溜まってもう外で働けないと思った時にお家の中にそれを並べて人に見せたり、お店にしたりして。アンティークはそれだけで強みになるの」
家にある素敵だと思う物。。ある?
考えて出てきたのが祖母が祖父と結婚したときに買った火鉢だ。
「うちにもあります、そういうの」
「そう、それはよかった。私はアレルギー持ちなの。だからお化粧を生まれて一度もしたことがないの。お洋服も化繊はだめ。食べ物もなるべく自然なものじゃなきゃだめ。些細なことだけど、みんなと同じにしなきゃいけない環境ってあるでしょう、そういうところで私はやっていけなかったの。だからここ継いだのね。だから親が遺してくれたこういう物に救われてるのよ」
そう話す女主人はすこしさみしそうだった。
自分を持った強くて、すこしさみしげな瞳。
私の恋人も女主人と同じようなアレルギー体質で、些細なように見えるけど大きな苦しみをいつも近くで見ている分、そのさみしそうな顔が胸を痛めた。
「あなたは何か病気はお持ちじゃない?健康?」
「はい、持病は今のところないです」
「そう。病気ってほとんどがストレスから起こるみたいね。だから、あなたもストレスを溜めない生き方してね。好い加減てのはおすすめよ」
女主人はにっこり笑ってくれた。
女主人の話す言葉自体は世間でよく言われていることかもしれない。
だけど、経験をした人の話し方だった。
それまでのひとつひとつのエピソードを越えて生まれたその人の言葉。
女主人の姿がやけに神々しく、やさしい魔女のような天女のような、そんなふうに見え始め、私は思わず写真を撮らせてもらっていた。女主人は快く笑ってみせてくれた。
「ぜひ、最後まで旅を楽しんでね。人生も旅だからお互い楽しく旅しましょうね。また元気に会いましょうね」
私はもう一度店内をぐるりと見渡した。
ふっと力が抜けて、涙が知らず知らず溢れ出てきた。
なんでだろうなんでだろう。わからないなー。と考えつつ涙が止まらない。
「あらあら」
と笑ってくれた。
「はい、また来ます」
私もおかしくなってきて笑いながら泣いてしまった。
こんな泣き方もあるのか。
ものすごくやさしい空間に気付くと人は泣くのか。
来店した時はキッチンから動かなかった女主人が、退転する時ドアの前まで見送ってくれた。
「またね」
あたたかい声。
私はまた自転車に乗って、泣き顔が誰にもばれないように、だけど清々しい気持ちで金沢駅まで風のようにこいだ。
心にはぽわっとあたたかい丸いものが入り込んだかんじ。
私はこの人に会うためにここまで来たのかなぁ、なんて考えるほど「奇跡」だなぁと思った。
夜行バスの時間まで、カフェに居座り、女主人が話してくれたことを思い出せるだけ総て書き残した。だからここに書いた会話はほとんど忠実。
ここに書いたこと以外にも女主人は沢山のことを話してくれた。
それはまた今度書くことにしよう。
とりあえず、旅先の素敵な出会いのあらすじだけでも残したかった。