蔓草雑話

あの話、その話、話題は蔓草のようにのびて。

交換日記

 

 高校1年生のときに、担任のE子先生とひみつの交換日記をしていた時期があった。

 さっき、ひさしぶりに読み返して(自分のところは恥ずかしいからあんまり読めなかった)、先生はまた高校以来の大事なヒントを与えてくれたような気分になった。

 

 この先何度読み返しても、はっとしてしまう言葉の連なり。

 先生は字が汚いので、じっくり目を凝らさないと読めない。そこが好きだった。

 国語の教師のくせに漢字が少ない。そこも好きだった。

 

 当時、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた様子ではなかったけれど、改めて日記を読むと、毎日忙しい中、わたしに大事なことを伝えてくれようとよく考えて書いてくれていたのがわかる。

 

 私のクラスは音楽と美術を専攻している生徒が集ったクラスで、私は音楽を専攻していた。今ではそんな事実が信じがたいほど音楽から遠のいてる。専ら聴く専門。

 クラス替えもなく、担任の先生も3年間変わらなかった。

 こういうクラスだったから、できたことなのかもしれない。

 文学と音楽と美術が好きな先生だったから、壁をつくらずに心の核まで知ってもらえるような気がしたのかもしれない。

 

 「先生にだったら沢山、思い切り、わたしの頭の中のタンクを逆さまにして伝えることが出来る。そんな気がなんとなくする」と、日記の初日に書いたら

 

 「私も、あなたに負けないくらい、勝手に「頭の中のタンクを逆さま」にしようと思います。私も思いっきり「自己中」に、自分の思ってることだけを、このノートにぶつけようと思います。あなたも「自己中」、私も「自己中」でいきましょうよ。それが一番お互いに正直だし、このノートの主旨にあってるとおもう。

 

 私も人と人はわかりあえるということに対して懐疑的です。人と人がわかりあえることなんて、ないわよ。でも、だからこそ、わかりあえたようにおもえる一瞬(それこそ、思い込みかもしれない)が尊いのだと、私は思うんです。この世には存在しないからこそ、価値があって、人を動かすものだって、あると思うのよ。芸術だって、しょせんは、夢です。でもだからこそ、だからこそ、価値があって、美しいのだ、と私は思うんです。」

 

と、返してくださった。

 

 私は、うれしくて、うれしくて。ほうとうにうれしくて。

 やっと、自分の想いを伝えてもいい人に出会えた気がした。

 安心して頭の中のタンクを逆さまにすることができた。先生も、このノートのなかでは教師らしからぬことも含め、正直に、頭の中のタンクを逆さまにしてくださった。

 先生の文字を見ていると、先生の声で再生される。しゃがれてる。

 

 この日記は5月からはじまり、1月に終わった。

 私がこの日記を必要としなくなったから。

 友達が出来て、学校へもちゃんと通うようになったから。

 

 勇気をだして、あのとき、職員室をノックして、ノートを先生に渡してよかった。

 今になって、当時以上にこの日記の大きさに気付いて、もう、私、ふるふるしちゃってる。

 

 卒業以来、高校に行っていないし、先生にも会っていない。

 家を出る前に一度会いにいこうと思う。

 ほんとうはもっともっと人として大きくなってから会おうかと思ったけど、それではもう一生会えない気がする。