兄は諭すのが好き
七歳離れた兄は諭すのが好き。
安直な物欲をかかえて結局なにも手を付けられないお母さんを、顔を合わせれば諭している。
お母さんには趣味がない。
「趣味っていうのは疲れないんだ。どんなに体を動かすことでも、疲れたなんて思わない。むしろすっきりしてくるもんなんだよ」
「そうは言ってもねぇ、年齢ってものがついてまわるんだよ。何かを始めようと思うと準備がいるでしょ、それ考えただけでも疲れちゃう」
「年齢なんか関係ないよ。60過ぎてみんな色々やってんじゃん」
「そういう人はそういう人」
「お母さん、それを言っちゃあおしまいだよ」
「そんなこと言ったってねぇ、ねぇ」
お母さんは兄に言い負かされそうになると、いつも末っ子の私に振ってくる。
小さい頃などっちについたらいいのかわからなくて、聴いてないフリか困ってるフリをしていたが、近頃は自分の意見をちゃんというようにしてる。
そうするとお母さんはびっくりしたような、さみしそうな顔をするんだけど、それはいつものお母さんのパフォーマンスなので見ないフリどころか、子供にそんな小狡い手を使うお母さんを凝視している。
「お母さんは何かをやらなきゃ何かをやらなきゃって頭で考えすぎなんじゃない?気持ちではNGだしてるのに、かっこつけたがって無理しようとしてる。どうせ続かないって自分でわかってるのに」
「そんなんじゃない、ほんとにやりたいと思ってるの!でも体が動かないのよ」
お母さん、私だからって口調が強くなっていないかい。
そしてまた振り出しの兄の言葉に戻る。
「お母さんは雑念が多すぎる。前から言ってるけど瞑想してみなよ。一度心を空っぽにしてみなよ」
「瞑想ってどうやるの?」
「前にも説明したけどさぁ、目を瞑って、呼吸だけに集中するの」
「むずかしいよー、そんなのちゃんと先生にレクチャーしてもらわないと出来ない」
私は思わず「なんで。呼吸じゃん」と食い気味に言ってしまった。
「あんた出来んの?教わってないのに?」
「うん、出来てるとか出来てないとかわからないけど、瞑想はするよ」
「あんた昔からいつも変だもんね」
変とかそういう話ではないのに、悔しがっちゃって。
「呼吸は呼吸でもちゃんとやんなきゃいけない呼吸でしょ、やり方教わらないとできない」
「。。。。。。。何か言ってやってよ、いつも教えてんのに聞いてくるんだよ」
今度は兄が私に振ってくる。
「じゃあ、ヨガでも通おうよ、一緒に行くよ」
「ヨガはヤダ。疲れる」
「。。。。。。。」
「。。。。。。。」
「。。。。。。。」
「ま、所詮他人がどうこう言っても本人が変わらない限り無理な話だよね。やらない人はやらないんだもん」
「ほんとそうだ」
「じゃあ、どうすれば変われるのよ、おしえてよ」
兄も私も、「結局いつもこうだ」「だから人を諭すなんてハナから無理だってわかってるのに。。!」と肩を落として自室へ戻ってゆく。
でもそこで諭すのを辞めるのは兄の「ビリーブ向上論」に反する。
だからまた、顔を合わせれば同じように呼吸の仕方を一から教えてあげている。
私は昔から兄からしてみれば模範的な聴講者なので、兄の諭してきたことは私のなかに割と多く沁み込んでいる。
たとえばこないだも兄は私とお母さんににこう諭した。
「やりたいことに優先順位をつけるのはよくないよ。やりたいと思ったことは全部やる。ちょっとずつ、全部やる」
お母さんはなんだか腑に落ちていない様子だったけど、私は妙に腑に落ちてしまった。「そうか一つに絞ろうとするから苦しくなってたのかな」と、楽なった自分に気付いた。
幸運なことに、兄も恋人も恩師も言ってることは似ていることが多い。
身近な信用している人たちが納得する同じようなことを私に諭してくれると、それはもう私のなかで「真理と言っていいでしょう」と認定される。
その瞬間、一つまたお守りが増えた気になって、私の足取りはすこしかるくなる。