わたしの母国語は日本語
わたしの母国語は日本語
日々、日本語を操り生きている
近頃、そのことが私を心地よくしてくれている。と今日初めてわかった
田中澄江の『めし』を観て、谷崎潤一郎の『春琴抄』を読み終わり、そしてサガンの『ある微笑』を読み始めた今日、無性に日本語が恋しくて仕方なくなった
『ある微笑』はフランスのおはなし
日本語に訳されても、それはやっぱりフランス語
当たり前と言えば 当たり前 国が違うから
母国がある限り人は母国の「懐」の内にある
今まで見えていなかった、その「懐」が、ここのところ、とてもやわらかい灯りになって私の視界に在ってくれている
フランスのおはなしを読んで、じぶんをその世界に置いてみたときに、「私は思うように言葉を操れなくて歯痒いだろう」「その国のエスプリが解らず情けなくなるだろう」と思った
そんな時、
「あ、そうか私には日本語があるじゃないか!」
と母国語の「懐」に気付いた
自分が生まれるずっと前から母国語はあって、続いている
自分が生まれるずっと前の映画や本を母国のおはなしとして楽しむことができる
そのことのやさしさったら
ごはんを食べていて思ったこと
米や煮物や味噌汁は私を拒まない
母国のたべものが、当たり前のように私の目の前にあってくれる
そのことのやさしさったら
私が言う「懐」を人は「普遍」と言っているのかもしれない
似ているけれど 「懐」 のほうがじんわりとした温度を感じる
「懐」という文字が人の胸のあたりを指す言葉だから
私は言語がきっかけで、母国にじんわりとした温度を感じたのだ
そしてそこから波紋のように広がって、たべものや民謡や着物などにも母国のやさしくてかしこい「懐」を感じるようになっている
しばらくするとその「懐」をなくすまいと守ろうという意志が芽生えてくるのかもしれない
こうして人はその国の人間に成っていくんだろうな