蔓草雑話

あの話、その話、話題は蔓草のようにのびて。

安藤裕子のライブを聴きにいく。

 

 朝からバイトへ行って、15時すぎまで働いて、京浜東北線と山手線を乗り継いで、有楽町へ。

 東京国際フォーラムで行われた安藤裕子のライブ

「勘違い」

 を鑑賞してきた。音楽が好きな友人と二人で。

 

 私がチケットをとって、誘ったというのに、安藤裕子色に気持ちも高めず、フラットなまま会場へ。

 ニューアルバムタイトルでもある「勘違い」。私はこのアルバムすらも予習していない。

 聞けば友人も同じ心持ちらしい。私も友人も会場までの電車では岡村靖幸を聴いていた。私はなぜか「ハレンチ」をリピートしまくっていた。

 

 

 開演。

 

 ライティングがきれい。アルバムジャケットのイメージ通り、深海を思わせる青に、音と合わせて灯台のビームのような赤や黄がブイーンとうねる。

 一曲目、音が少しはち切れていた。

 次第に音はまとまり始め、バンドの音が一つにあつまっていった。

 そうしてようやく、安藤裕子の声が玉虫色になった。

 私のなかで安藤裕子の歌声のイメージは、こじんまりとしつつ張りつめた丸みのある翡翠や玉虫である。ふしぎな光沢のある声だとおもう。

 

 私は、どっぷりと深く腰掛けて脱力しながら、頬杖をついて物思いに耽りながら、たまに寝ながら、音楽を「聴いていた」。

 そう、今日は「聴いていた」で留まってしまったかんじ。

 

 オザケンや岡村ちゃんのライブでは、鑑賞者の私からもステージ上のあの人にどうかパワーや想いが伝わるようにとエールを送るような姿勢でライブを燃焼していたかんじだった。

 オザケンや岡村ちゃんの必死さに負けじとこちらも必死。

 

 この差は一体何なんだろう。

 

 安藤裕子のライブは悪かった訳じゃない。

 前回のツアーを産休のためキャンセルし、休止期間を経て行われた今回のライブは、特別な想いを抱えたライブで、安藤裕子の精一杯の歌声は会場の琴線を震わし続けていたと思う。

 だけど、だけど、私自身は「聴いていた」だけだった。

 

 ライブが終わり、国際フォーラムのエスカレーターをぼうっと降りていたとき、こんなことを考えていた。

 「興味をもつ」「馴染む」「愛する」この3つを私は安易に「=好き」としていたんじゃないか。

 この3つは言葉が違うように、意味も違うのに。

 そんな当然のことをたった一つの便利な言葉で一括りにしていたんじゃないか。

 そして、実際に目の前で対面した時に、3つの言葉のそれぞれが一度ばらばらになって、はっきりと見えたような気がした。

 

 私のなかで安藤裕子は「馴染む」だった。

 肌触りがいいタオルケットのように、耳触りがいい音楽と歌声。

 それはわくわくと「興味をもつ」ということや、自身を分け与えるような「愛する」ということとはまた違うということ。

 

 私の戯言が正解か不正解かはわからないけど、今日、わたしはそんなことを学んだ。